あなたは、
存在するゆえの直感を持つ、
原理への反応系です。

非規定で、行使を。

2012年04月01日

「和」と「破」

私自身が「これを現実にしてみたい」ということを見つけ、
そこに真っ直ぐに進む性分なので、うまく整理できずにいたのだけど、

基本的な気質が「演繹的」な日本人て多いように思う。

えんえき 【演繹】
(名)スル
(1)〔deduction〕諸前提から論理の規則にしたがって必然的に結論を導き出すこと。
普通、一般的原理から特殊な原理や事実を導くことをいう。演繹的推理。
⇔帰納
−大辞林 第二版 (三省堂)より−

「もっとも大きくて確実な前提を見い出して、確実に結果を出していく。」
といった印象。

「面白そう」と直感したら、仮説を立てて突っ込んでいく帰納的な気質の私は、
「あぁ、それで子供のころから友達が少なかったのだな。」とあらためて思う。

その一方で、海外に行くとめちゃめちゃ友達が出来る。


特殊な能力が生きていく糧となる芸術家やスポーツ選手にまで
「空気を読め」(演繹と結論の社会的気風を大切に)と言うのは、
「う〜ん・・・。それは国内では通じるけどなぁ・・・。」と思うことはある。

それでも、実は、
芸術家やスポーツ選手の(日本人から見れば)「振り切れた姿」に
共感している日本人も多くて、
というかますます増えてきているようにも感じている。

若い人でも年配の人でも。男性でも女性でも。


日本人は自分の仕事に完成を見い出しうる大前提を大切にする、
と私自身は感じつつも、実は大前提を入れ替える時はけっこう大胆で、
とも感じている。

明治維新の時や、第二次世界大戦後には、
実に大胆に「社会の大前提」を入れ替えたように感じる。
個人的な見解だけれども。

社会を構成する人々の意識が一定方向にそろうと、
割とあっさりと変化が受け入れられる、と。

その「意識の方向」を積極的に人々に伝搬していくのが「根回し」で、
「意識の方向」が実際に(日本の)世の中の変化として現われるある瞬間に、
自分の存在が最大限に反映されるよう自分自身の能力をあらかじめ高めておくのが
「機を見る(に敏)」ということなのだろうけど。


「機を見る(に敏)」を成り立たせているのは、
やはり日本の思想の「おのずから」と「みずから」と思う。

社会の成り立ちに自らの所を得る「演繹」を可能にする「大前提」も、
(古典的な意味においてさえ)「世界」の「おのずから」の変化にあり、

その「おのずから」の変化に「みずから」を「和」するか、
「おのずから」を見失った人に対し「みずから」を立たせて「破」をなすか、

「世界を観る」ことと、日々(自らの)「技能を新たにする」ことと、
(おのずからとみずからとからなる)「和」と「破」に敏であること。


日本はもう少しで、新たな変化を「人々が」受け入れ、
日本人がみずからもまた変化していくかな、と感じています。

その変化に直接に私自身が関わるのはどのタイミング(機)なのかな、
と考えると、修行にも身が入るというものです。

こうして自分を振り返ってみると、
演繹(deduction)、帰納(induction)などという言葉を使いつつも、
「ああ、私って、どストライクに日本人だな。」
と思うこともしばしば、で。

自由な構想を帰結に導く方法(abduction)もあります。
その方法が具体的に現われるものの一つはガラス玉遊戯ですけれども。

abductionはガラス玉遊戯の「最初の図式法」の構造の特徴の一つで、
「おのずから」と「みずから」が「最初の図式法」に直接に関わるのは、
要素の第2セットの「原理」の部分です。

第2セットの「原理」の部分では、中国なら陰陽五行を用いられるでしょうし、
欧米についてはすでにガラス玉遊戯の探求をされてる方々の興味深い手法を、
まず尊重すべき、と。

実際、有効と感じられるものが、多数、感じられていて。

あぁ、今日は空がとても青いです。(^^)


2011-06-08公開
 
 
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「愛」

ヘルマン・ヘッセの小説ガラス玉遊戯を翻訳した井手賁夫先生の元で、
私は6年ほど勉強させていただいたのだけど、

その間、井手賁夫(以下敬称略)から色々な提案があった。

ある人が事務仕事をする人を求めている、とか、
私がドイツの大学に行った後、求めていることがあったら言ってみなさい、
とか、

井手賁夫とは別に、
多くのヘッセの著作の翻訳をした高橋健二先生との面会の機会もあった。

私はそれらを、
「井手賁夫先生の元で勉強することが私の求めている全てですから」
と断ったのだけど、

その度ごとに、井手賁夫は私をより身近に置いてくださるようになった。
例えば、ブラームスの演奏会を楽しまれる時に私を呼んでくださるなど。
(井手賁夫は自宅でもよくブラームスをかけていた)

その後、以前ブログでも書いたけど、
ドイツの上院議員が日本に来られた時の食事会や、
駐日ドイツ大使との懇親会にも、計3回、出席させていただいた。

ある駐日ドイツ大使との懇親会の時に、
井手賁夫はご自身が食べているハンバーグを半分だけ食べると、
残りを私が食べるように、と、皿を私の前に差し出した。

私は、それは井手賁夫が戦時中の日本の貧しさを知っているからか、
と感じたのだけど、「おそらく疑問を持つことに意味は無い」と感じると、
感謝を伝え、ハンバーグをいただいた。

ふと、私が視線を上げると、駐日ドイツ大使が、
実に温かいまなざしで私を見ていた。
他の参加者で年配の方々全員も。

その時、私は二つのことに気づいた。

一つ目は、
私が井手賁夫の精神を継承する者として人々に紹介された、
(同じ皿から食をとる者として紹介された)
ということ。

二つ目は、
いままでの井手賁夫の私への提案は、その提案を受けたなら、
私の「価格」はその提案の内容によって規定されるとされ、
つまり年収一千万の仕事なら、私の価格は年に一千万と規定され、
おそらく、もう井手賁夫のそばにはいられなくなったであろうこと。

私は、実に恐ろしい試験を受けていたことに気づき、戦慄した。

井手賁夫の試験において私は、
「あなたの価値をあなた自身で宣言しなさい」と問われ、
「精神への愛」と応じた。

もし、返答がそれ以外なら、公の場で私は私自身のことを、
「価格の決まった人」と宣言することになっていた。

(もちろん、現在高年収の人々がその年収で規定されている、
 と言っているのではありません。
 私は非公式に井手賁夫に出会い、井手賁夫は非公式に
 私に学びの機会を与えたのですが、それがどこに帰結するかを、
 つまり、非公式な関係にどのような公式の関係を築けるかを、
 試みていた、そのことについて述べています。)

私は、かつて井手賁夫に伝えたように、ガラス玉遊戯を現実化した。
少なくとも、ガラス玉遊戯の図式法が出来て(足かけ)14年の検証で、
図式法が否定される物事は感じられていない。
私は、図式法を先月、公開した。

今日、さらに、いくつか気づいたことがある。
16年以上も経った今日になって。
それはまた、言葉にすべきものでは無いように感じられることとして。

観念における、あるいは衝動における愛とは、
少し異なって説明される、
「精神」や「技法」や「在り方」について、相互に確認されることからなる、
永遠性や永続性を共に現わすという意味での、
つまり「維持される愛」「継承される事実」というものがある。

そのことだけ、言葉にしたい。

本当は、そのようなことも、言葉にする必要は無いのだろうけど、
いま私達が生きている現実の世界は、ずいぶんと、
人間の尊さについて説明の足りない世界であるように感じられるので。

例証が一つ加えられることにも、意味があるように思えた。


2011-06-14公開
 
 
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揚力のある世界

例え話にすると。

初めてパラセールを経験するとする。

安全性の説明は受けたけども、空中に舞い上がるのは、まだ不安。

風の音が流れはじめ、
空気の揚力を受けて空中に浮き上がっていく。

日常の経験を超越する快感と、
心にあった多くの不安が一瞬で思い出されることによる困惑とが、
同時に起こる。

もちろん、不安は最初の数回のこと。

客観的な手順による安全確保を軽んじると危険なのだけど、
主観的な思い込みによる不安は、自分自身による判断ミスを誘う、
それ自体の危険性ともなりうる。

現実に起こり得るリスクをどのようにマネジメントするか、
心に浮かぶ不安をどのようにコントロールするか、
要点をまとめたメモを、私は毎日、確認している。

あとは、揚力のある世界だ。


2011-07-31公開
 
 
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作業と音楽

iPod shuffle

作業などで視線を向けているものから目を離さず、
音楽の切り替えができるので楽。

音楽の切り替えに意識をひんぱんに向けていると、
作業の“ノリ”もそこなわれるし・・・。

プレイリストの切り替えで十分。

ふたつ持っていて、
一つは256kbpsでその時々に注目している音楽をいれ、
もう一つは128kbpsで好きな曲全般をいれている。

音楽はCDで購入している。


クラシックもシャッフルで聴いて楽しいのは、
新鮮な驚きだった。

思い起こしてみると、
音楽理論について触れたいからとリクエストして、
音楽教室に紹介してもらったピアノの先生から教わったことを、
いくつか思い出す。

クラシックの音楽は、作曲について多くの決まりがあり、
どのような音で始まったかで、どのような音で終わるかも、
決まっている、ということだった。

有名なサビ(?)の多い第一楽章や第四楽章だけでなく、
第二楽章や第三楽章もシャッフルでつながれても、
突飛な印象を受けないのは、そうしたことと関係あるかもしれない。

「音楽理論はそれ自体でどこまでも進めることができる。
 けれども、音楽理論を進めることと音楽をすることそのものとは、
 異なっている。」

印象的な言葉だった。

私達は、それ自体生きている世の中を、生きている。
音楽に宿っているものに求めるのも、そこにあるのかもしれない。


2011-08-11公開
 
 
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世界と交流しながら、思います。

ブログやツイッターで世界と交流しながら、思います。


私はスイスとドイツで
クリスマスからニューイヤーズデイを過ごしたことが、
一度、あるのですが、

クリスマスは、
日本で言えば正月三ヶ日のように厳かで、
ニューイヤーズデイは、
日本で言えばクリスマスのようににぎやかでした。


世界中と交流するなかで、私自身のヨーロッパでの経験が、
世界の人々の様子をイメージする役に立ちます。

人生に明確な目標があると、人生の全ての経験が、
その目標に役立つよう、調整されるみたいですね。

マイナスの経験も、
「人生の目標を達成することについて気づいていなかった領域の現れ」
という印象でした。

常に、自分と世界と目標との関係が軸になること。

自分と困難との関係だけになると、結果も、
「克服できたか、できなかったか」の、二者択一になるのですよね。
その場合、「克服できても利益が無い」となると、最悪で。


自分自身が何を現実化したいか、
そのために自分の心に働きかけ、自然と節理を観察し、
真理の存在に祈り、意味や価値を創出する。

そうして生きていくのに、資格試験は無いですからね。

「そんなことをしても、無理なものは無理なんだよ。」
と言われそうですが、自分が開けようと思っていたドアを、
反対側からも開けようとしている人がいることもある、
ということを、最近、学びました。

一つのドアを開けるカギが、
いくつかのドアを開けるマスターキーである場合があることも。


"Think different" (違った方向から考えろ)
ースティーブ・ジョブスー

(><)最後に引用になってしまった。

いくら、いま、iPadで入力しているからと言って。(⌒▽⌒)


※2011-12-12に旧ブログで公開した記事を書き直したものです。

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