あなたは、
存在するゆえの直感を持つ、
原理への反応系です。

非規定で、行使を。

2012年04月01日

恩師井手賁夫の自宅にて(原題:精神の独立記念日(2))

そうして、
井手賁夫先生のご自宅で勉強するようになりましたが、
ほとんどが、
小説ガラス玉遊戯での重要な部分の翻訳の実践でした。


ただ、たまにポツリポツリと、井手先生が独り言のようにつぶやきます。
例えば、「仏教は寛大な宗教ですね」など。

私が、「ガラス玉遊戯の解釈について、仏教をどのように学べば良いですか?」などと
うかがうと、先生は「私は仏教は寛大な宗教だと言ったのです」という風でした。

先生の見解に対して定義を用いるのではなく、指針として全ての可能性を考慮しなさい、
というお考えだったのだと思います。


他方、小説のなかの架空の芸術であるガラス玉遊戯を、
いかに現実化できるか、私自身で探究を開始しました。

まずは、哲学全般を解説する本を読み、直観的に「カントだ」と決定し、
カントの三批判書である、純粋理性批判・実践理性批判・判断力批判を、
五年かけて勉強しました。
まるで物理学か数学基礎論のような難解な哲学でしたし、
仕事もしながらでしたので、時間がかかったのです。

旧約・新約聖書を通読したのも、このころです。


世界中でガラス玉遊戯の現実化が可能かどうか、研究されていました。
その研究の多くが、すべての文化的資産を同一の原因で説明できる、
普遍的記号の研究でした。

私は、カントの判断力批判の研究を終えた時、
全ての文化的資産を同一の原因で扱うことは不可能だけれども、
任意に選んだ複数の文化的資産を同一の目的に役立てることが可能だと確信しました。
この場合、全ての文化的資産に同一の原因があるとは言えませんが、
「全ての文化的資産を扱う一般的な思考方法」は可能になるのです。
ガラス玉遊戯の現実化を可能とするには、それで十分でした。


他方、音や色を扱う感性の芸術や、概念を扱う悟性の芸術があるなか、
私の見解では、ガラス玉遊戯は理念を扱う理性の芸術となりました。
すると、「理性の直観」が何であるかが問題になります。

カント哲学では、「理性の直観」は「実践命法」で扱われる、
道徳の範囲のものでした。

そこで出会ったのが、ヴァルター・ベンヤミンです。
ベンヤミンは、「思考の反省の反省は、理性の直観である。」と定義し、
ヘッセと同様に、全ての文化的資産を用いる芸術の研究を、していました。

ベンヤミンの見解で、思考の反省の反省は、
全ての理念を許容する「無意味なもの」で表される、
すなわち、普通のガラス玉を用いて表現できると結論し、
ヘッセの予言通り、ガラス玉遊戯は、ガラス玉で表現されることとなりました。

ユダヤ人だったベンヤミンが、ナチスに追い込まれ自殺しなければ、
「もう一つのガラス玉遊戯」がこの世界に存在していたでしょう。

戦争は、一人の天才を、一つの奇跡を、人類から奪いました。


井手先生は、私の研究について、
「何々をしなさい」等の指示を出したことはありませんでした。

先生の、書籍が山積みになって足の踏み場も無いお部屋や、
時折かかってくる学者や政治家からの電話をお受けになっている雰囲気、
そして、書籍を開いた時の、宗教家のごとき神聖な雰囲気を、
今も思い出します。

そして、私も自室で研究をし、何かの発見をした時に私自身の誠実さを感じると、
なぜか井手先生のお顔が思い出されたのです。

その誠実さは、いつも私の人生の指針でした。


2008-11-06公開。ここでは、元の記事の主要部分を。
 
 
     (C)Copyright 2008 Kyou Nissho. All rights reserved.
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/54764285
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
(C) Copyright 1998-2016 Kyo Nissho. All rights reserved.
ガラス玉遊戯の活動に賛成してくださる方は、
いずれかのブログランキングのバナーのクリックをお願いいたします。

Blog Ranking.gif ブログ村.gif

ガラス玉遊戯者
響 西庄 庸勝