あなたは、
存在するゆえの直感を持つ、
原理への反応系です。

非規定で、行使を。

2012年04月01日

その人の在り方によって定義されるもの

22歳の時、72歳までの目標をガラス玉遊戯の実現と決めた私は、
北大名誉教授であり、ドイツ十字勲章を得ていらした、
井手賁夫先生のご自宅で勉強していました。

床一面に書籍が積み上げられていて、本の山の間に隙間があり、
歩くことができるようになっていました。

ドイツ語のガラス玉遊戯の原著から、井手先生は、
重要な項目となるところを選び、次の勉強の日まで翻訳の課題とし、
時折、経済界や政治家から電話が鳴る以外は、
ポツリポツリと「一言」で先生が注釈をおっしゃる以外は、
淡々と読解が進むだけの、シンプルな勉強の時間でした。

やがて、ご高齢であることが理由とされたのでしょうか、
勉強会の終了の葉書が来ました。私は、
私自身の探求を継続する過程で生じた質問に答えていただけないものかと、
手を尽くしてお願いしましたところ、先生にお時間のある時ならかまわない、
とご連絡がありました。


ガラス玉遊戯の現実化に関するご指導はありませんでした。
ただ、時折、音楽会にご同伴させていただけるご案内や、
ドイツからの訪問であるドイツ上院議員11人と日本人11人の懇親会や、
駐日ドイツ大使との懇親会などへの参加のご案内がありました。

その都度、井手先生は、「〜の仕事をする人を〜の機関が探していますが、
あなた、おやりになりませんか?」など、問いかけられたのですが、
私は、私が井手先生に求めているものは、井手先生から得られるもので、
その他の誰かから得も、まして金銭や名誉を代償にするものでもありません、
と、お断りいたしました。

同じくガラス玉遊戯を翻訳された、高橋健二先生との面会の機会にも、
私は高橋先生に丁寧にご挨拶いたしましたが、質問は控えました。
本当に必要なものは、質問と返答の間にあるのではない、
私にはそう思われていたのです。


私が井手先生のご提案を辞退する度に、
井手先生からの手紙の数は多くなり、
ユーモアの回数も増えていきました。

そして、先の駐日ドイツ大使との懇親会の時に、先に会場に入り、
まわりの人々のお邪魔にならないよう、はしっこの席に座っていた私の横に、
井手先生がお座りになりました。そして、
先生が半分だけ食べたハンバーグの皿を、先生は私の前に差し出しました。
意味が分からないまま、私はそのハンバーグを一口食べ、顔を上げると、
駐日ドイツ大使が満面の笑みで私を見つめていました。
周囲の方々もです。

その瞬間に、私は井手先生と同じ食事をとる人、つまり、
井手賁夫先生の精神の直系の継承者となったことを悟りました。

それまでの、井手賁夫先生の、一見私の利益となるご提案は、
私が私自身の価値をどう考えているかのチェックだったのです。
つまり、年収1000万円の仕事を私が受け入れれば、
私の存在の価値は年に1000万円と規定され、
金銭で得られる以上のもの、つまり井手先生の後継者には、
なれない、と自己宣告することを意味していました。

井手先生は、ガラス玉遊戯の現実化がどう成されるのかより、
私が私自身をどのように考え、井手先生が生涯を通じて向き合った、
その精神の継承にふさわしいかだけをチェックしていたのです。

「自分自身の価値を、何によって決めるかを、自己宣告させる。」
こんな恐ろしいテストを、私は、知らぬ間に受けていて、
「ただ真実への在り方によってのみ定義する」と、無意識に答え、
合格したのです。


10年間の計画を立てられる人は100人に2人。
そして、本当に10年間続けられる人は、そのなかの、
さらに100人に2人。つまり、1万人に4人。

自らの存在を何によって求めるかの自己決定が必要で、
自らの活動によって人々が喜ぶことしか、
自らを量る天秤は無いのだと、厳しく理解する必要がある、
そのような意味です。
それができて、権力や権威は互恵と互助のための秩序となり、
接して健康であることができるようになる、
それが私の経験したことです。


自ら選択し、努力しても、自分がどのように成長できるか、
あらかじめ理解することはできません。しかし、
「理解」という言葉は、人に人生を錯覚させます。

人間は思考力を長所として実在する生き物であるため、
「理解できることが正しい」という先入観を持っています。
言いかえれば、「理解できないなら自分は間違っている」、
そのように思い込みがちです。

「理解」は「過去の努力全体の評価」の上に成り立ちます。
未来に向かう時は、人は自分の可能性を理解できません。
もし困難な時代にメリットがあるとするなら、
理解より勇気を優先する姿勢を得やすいことでしょう。

でも、「勇気」でなくてもかまいません。
ふるえながら、泣きじゃくりながら、眠れない夜をこえ、朝、
鏡のなかの自分に向かい合えるなら、その1日は、
必ずあなたを意味ある何かに導いてくれます。

真実は、強さや、完全さや、見栄えの良さに、
あるとは限りません。疑いながらでも、
一つの歩みを進める時になら、草のなかにも、
水のなかにも、あなたの瞳のなかにも、
発見できることでしょう。

奇跡という概念に期待するものは、
その芽が自らの内に眠っていることを信じることで、
疑うことではありません。


2009-08-15公開
 
 
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